法学とはなにか

末弘先生が法学もしくは法律を生業とする人たちに対して、「理屈だけで考えるな。現実の事象を観察しろ」と警告したのは90年以上も前になること、そしてその問題は未だに解決できずにいることは、前回の記事のとおりです。

 

では、そもそも「法学とは何か?」という疑問が湧いてくるわけですが、ここに、ドイツの法制史学者が書いた本(ヘルムート・コーイング(松尾 弘 訳)『法解釈学入門』 )があります。ちょっと読んでみましょう(太字は著書による)。

法学は…社会科学ではない。というのも、法学は社会の内部における物事の経過の因果関係を当物、あるいは既存の社会の構造を現象学的に問うものではなく、ある特定の社会における正当な秩序を問うものである。法学は現在妥当している秩序についての科学である。

しかしながら、法学は、他面において、社会科学から孤立することができるわけでもない。法学は社会の現実についての知識を必要とする。…例えば、カルテル法、労働法または競争法といった領域の学識法曹は、当該領域の事実関係を知らなければならない。学識法曹は、カルテルがどのように機能するのか、賃金交渉が事実上どのように行われるのか、競争における闘争が事実上どのようなものであるのかを知らなければならない。それゆえに、学識法曹は、社会科学の代表者との恒常的な接触およびその恒常的な支援を必要としている。あらゆる孤立、あらゆる隔離は法学にとって危険であろう。

したがって、…法学は社会科学に接近している実践的、応用的精神科学として表現しなければならないであろう。

 

金言だと思います。

たしかに法学は、「当該利益集団にとっていかなる解決が公平なのか?」を考える秩序の学問にすぎず、社会現象を説明するための道具ではありません。交換を通して生じる社会現象を説明し、ひいては未来をも予測する道具として、経済学が使われることはあるでしょう。しかし、秩序の概念という我々の頭のなかにあるだけのものを現象として捉えて説明することはあまりに困難で、そのような道具として法学が使われることはありません。その意味では、法学が社会学となることは不可能なのです。

もっとも、当該利益集団がいかなる性質を有するのか、そしてその集団にとってどのような結論であれば許容可能なのか、又は他の集団から見たときも殊更不公平な結論となっていないかなどは、密に検討しなければなりません。その意味で、社会学への近接は不可避なのです。

社会学であることは不可能であるのに、それと同時に社会学への接近は不可避であるという、なんともとらえどころのない学問が法学ということになりそうです。

末弘先生が法社会学の重要性を90年以上も前に説いたのに、つかず離れずを繰り返し、未だに理屈をこねくり回す法学への批判が存在するのも、以上の「社会学への不可能性と不可避性」に起因しているのだと思います。

 

もちろん先の著書でコーイング先生は、「法学が実際の法律の解釈によってのみ成り立つ実践的なものであるなら、そしてまたその法律というものが儚く移ろいゆくものだとするなら、法学に学問的意義はないのではないか」との疑問にもこう応えています。

そのように考える者は、法学が秩序についての止むことのない諸問題を、正義についての止むことのない諸原理の下で解決する1つの試みとして現行法を理解するように駆り立てるものである、ということを見逃している。

 ううう、コーイング先生かっこよすぎる…!!何言ってるかよくわかんないけど…笑

 

さらにコーイング先生は、畳み掛けるようにイギリスの哲学者・エドマンド・バーク(1729−1797)の言葉を引用し、同時にそれをもって結びの言葉としています。

法学という学問は、人間的知性の誇りであり、そのすべての欠陥、冗長および誤りにもかかわらず、本源的な正義の諸原理を、際限なく多様な人間的関心事に結びつける、その時代の人々の冷静沈着な理性である。  

バーク先生さすがにかっこよすぎて鼻血。

 

上記で引用した本はこちら。解釈の仕方だけで一冊の本が書けてしまうって、実は結構不思議な世界なような気もします。