民法学者・末弘厳太郎の憂鬱は続くよどこまでも

前の記事でこんなことを書きました。

コンピュータが工学的技術を爆発的な速度で進化させていく現代において、抽象的な事象だけを頭でこねくり回す法学のような学問が、果たしてどれくらい世の中に利益をもたらすといえるのか、疑問が残らないではありません。

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もし仮に何もインパクトを与えることができない、すなわち法学という概念が存在「しなければならない」理由はなく、メカニカルアーツの前に甘んじて完全敗北を喫するのだとすれば、人類の叡智である法を生み出してきた先人たちの軌跡は何だったのかということになってしまう。

ということで、先人たる法学者が何を考えてきたのかをみてみましょう。

最も有名な法学者といえば、一番に東京大学名誉教授・我妻栄を挙げる人が多いと思います。どの法律事務所でも我妻先生の民法講義が置いてあったりしますが、今回はさらに時代を遡って、我妻先生を指導したうちのひとりで、同じく東京大学名誉教授・末弘厳太郎の著作にあたりたいと思います(著作権フリーだから探しやすいし)。

 

法学という「小知恵」

末弘先生は、1888年生まれですので、当時35歳の1923年に、論考「小知恵にとらわれた現代の法律学」にて、次のように述べています。

第一八世紀以来漸次に自然科学が発達をとげると同時に、自然科学の力を借りれば万事がたちどころに説明がつく、したがって万事が経験と理知とで説明されうるというようなことを、世の中一般の人が軽々しく考えるようになり、ついには現在まだわずかしか発達していない自然科学をもってすでになにかよほど完全なもののように考え、これで万事きりもりしてゆけると考えるようになった。

ところが実際の宇宙はもっともっと複雑な深遠なもので、とうてい今日の程度の自然科学ではいかんともしがたいのである。ところがこの種の考え方はすべての方面を支配して、かつては文学にも美術にまでも現われたのである。 

しかし世の中はもっと複雑です。理屈だけではとうてい説明できず、またわれわれが満足しないのです。そこで小さな理屈にのみ拘泥せずに、人生そのものの現実を直視して、真相をとらえなければならぬ。その傾向は文学、美術などの諸方面においてはすでに大きく現われていると思う。

しかるに法律学においては今日なお小知恵が専制しています。それで小知恵をふるい万事を理屈どおりやってみたが、さて出来上ったものはなんとなく人間味が欠けている。これが真に生きた世の中を規律しうるとはどうしても思えない。そこで私はいいたいのです。理屈大いに可なり、しかしその理屈が小さな狭いものであれば、すでになんの役にも立たぬ。

「小知恵」という言い方がなんとも皮肉たっぷり。「理屈などなんの役にも立たぬ」とこの当時言い切るのは、若気の至りでしょうか。真相はわかりませんが、概念法学的なご講釈を垂れる学会に嫌気がさしていたのかもしれません。

 

人間味の注射

末弘先生はこう続けます。

世の中には理屈だけではどうしても解けない複雑なことがたくさんある。人間の生活関係のごときはその最もいちじるしいものの一つで、これを規律する法律および法律学にはどうしても理屈を超越した、現実そのものをありのままに観察して得られるところの幾多の非理知的分子を附加して考えなければならないと思います。

このような「理屈で片付けるだけでなく現実を観察する」ことを、末弘先生は「人間味を注射する」と表現していますが、要は「形式的で杓子定規な判断を下すだけの法や法の担い手はいらない」というのが彼の主張です。

そこで、法に人間味を注射するための法社会学、法の担い手(裁判官や弁護士、法学者)に人間味に注射するための判例研究主義(概念法学ではなく)を提唱されるわけです(Wikipediaによれば、このような考え方は、当時の日本の法学界においてはかなり革新的な発想だったようです(末弘厳太郎 - Wikipedia))。

 

上述の論考の1年前である1922年、論考「嘘の効用」にて、末弘先生はこう言い切っています。

われわれは「尺度」を欲する。しかも同時に「伸縮する尺度」(引用者注:形式的に判断するのではなく、具体的事実についても公平に規律することができる法もしくはそのような運用のこと)を要求する。実をいえば矛盾した要求です。しかも人間がかくのごときものである以上、「法」はその矛盾した要求を充たしうるものでなければなりません。

そこで私は、今後創造せらるべき「法」はおのおの具体的の場合について「規則的に伸縮する尺度」でなければならず、「法学」はまたその「伸縮の法則」を求めるものでなければならぬと信じます。

しからば「規則的に伸縮する尺度」はいかにしてこれを作ることができるか。これ実に今後「法学」の向かうべき唯一の目標であって、しかも、事はきわめて困難なる問題に属する。

このような困難な問題に対する処方箋は、結局上述した人間観察から派生した法社会学判例研究によるしかないとしています。

そして、彼はこう警告します。

「法」をもってすれば何事をも命じうる、風俗、道徳までをも改革しうるという考えは、為政者のとかく抱きやすい思想です。しかし「人間」は彼らの考えるほど、我慢強く、かつ従順なものではありません。「人間」のできることにはだいたい限りがあります。「法」が合理的な根拠なしにその限度を越えた要求をしても、人は決してやすやすとそれに服従するものではありません。もしもその人が、意思の強固な正直者であれば「死」を賭しても「法」と戦います。またもし、その人が利口者であれば――これが多数の例だが――必ず「嘘」に救いを求めます。そうして「法」の適用を避けます。

ですから、「法」がむやみと厳重であればあるほど、国民は嘘つきになります。卑屈になります。「暴政は人を皮肉にするものです」。しかし暴政を行いつつある人は、決して国民の「皮肉」や「嘘つき」や「卑屈」を笑うことはできません。なぜならば、それは彼らみずからの招くところであって、国民もまた彼らと同様に生命の愛すべきことを知っているのですから。 

 

弁護士は究極の接客業である

以上の先人の言葉は、現在も引き継がれているように思います。慶応義塾大学名誉教授の池田真朗先生は、次のように述べます(『新世紀民法学の構築:民と民との法を求めて』)。

私はいつも学生諸君に、「弁護士は究極の接客業である」と言っています。クライアントはどういう解決を望んでいるのか、クライアントの言い分と相手の言い分を勘案したら、弁護士としてはどういう解決手段を取るべきなのか、そしてどういう結果に至れば当事者は納得するのか、などと考えていくと、ただ机に向かって条文や判例を暗記しているような人は、万一司法試験に受かっても、決して良い弁護士にはなれないと思うわけです。…そういう意味では、まさにコミュニケーション能力や人間観察力が問われるのです。

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現在進行中の民法(債権関係)の改正議論に関していえば、…国際的に見て「優れた」と評価される民法を持つことは、もちろん大変結構なことである。しかし、学問的に最先端ということが、すなわち「優れた」ということではない…。現在のその国の市民とその活動を最適に補佐できる民法が「優れた」法なのであると思うのです。

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こういう金融法的発想(引用者注:実際に取引を行っている当事者的発想)を身につけなかったら、いくら法文や判例を覚えていても、プロの法曹人としてやっていけないでしょう。…基本書に書いてあることを覚えるだけではいけない。もとその立場になりきってものを考える癖をつける、イマジネーションを豊かにする意識をもたないといけないのです。

以上は、末弘先生が提唱する人間観察主義と通じる発想だと思います。

もちろん人間観察そのものは法学において学問ではありません。しかし、末弘先生が「理屈だけで考えるな。現実の事象を観察しろ」と警笛を鳴らしてから90年以上(ほぼ1世紀!)経った現在であっても、全く同じ忠告が学会や学生に対してなされているというのは、「尺度」や「公平」としての機能を放棄しえない法というものが抱える根源的な問題なのかもしれません。

 

なお、法学にはノーベル賞はないですが、たとえば最近の「ノーベル経済学賞の顔ぶれを見ても、新古典派の仮定を現実に近づけ、理論の微修正を図る取り組みが近年、一定の評価を得ている」とされ(ノーベル経済学賞「不完備契約の理論」の意義 | 市場観測 | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準)、しっかりと現実を観察し、仮定でしかなかった従来の条件を分析していくことは、世の中にとってたしかにインパクトのあることのようです。

 

単に合理的な規則を作って適用するのではなく、実際の市民生活や取引社会を睨み、時代の流れを嗅ぎ取りながら、独自の問題意識をもって法創造あるいは法解釈を行っていくことができれば、それは意味のある仕事たりうるのかもしれません。

 

キヨミズ准教授もこう述べていますしね。

法解釈論には絶対的正解なんてないわけで、大学の法学部というのは、誰も考えたことのない問題に取り組み、未知の世界に挑戦する場所なんですね。…ですから法学部のみなさんには、…「俺が素晴らしい解釈論を創造してやるから、ついてこい」という気持ちを持って欲しいですね。自分の創造力に自信がないのに法律家になろうとするのは、法律家を必要としている社会の人々の対して失礼というものですね。

木村草太『キヨミズ准教授の法学入門』

 

上記で引用した本はこちら。"初心"に立ち返ることができる本たちです。